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論ずる@
HTML

インターネットのホームページ上で使用されているHTMLという形式のファイル、未だコンピューターに対し少し恐れを抱く私がかつてこれ程熱中したものはそうそうに無い。まだまだコンピューター初心者である私が比較的少ないの「タグ」という形式を憶えるだけでコンピューター画面に表現力豊かな文字を羅列出来、更にはグラフィックやサウンド、ムービーまで表示できてしまうHTMLファイル。しかも作成したファイルが世界に向けて情報発信されてしまう。たった一台のコンピューターと電話線でいつでもその書類に手が届き、閲覧できるインターネット。

自己表現の自由という言葉がまた一つスケールを大きくなったような気がする。わざわざ本屋に行かなくても自宅のコンピューターからいつでも世界中の情報に飛び込んで行けるだけでも有り難いのに、更にそれらに自分も参加できるという事の喜びは一人の表現者としては嬉しいかぎりである。

しかし、いや、表現することも閲覧することも自由だからこそ個人個人の責任というものが必然的に発生してくると私は気が付いた。今更のようだが最近特にそう思った。表現の自由という甘言の裏に潜む責任という落とし穴。世界中何処からでも見ることが可能なホームページは、時としてとんでもない所で人を陥れる。私は劇団の仕事をよく引き受ける、つい最近も一本終えた処だ。そこで私がよく口にする言葉がある。「言葉には魂が宿っている。」だ。念の為に言っておくが、私はどこの宗教にも所属していない。無神論主義者だからだ。生憎見たり感じたりしないものには信用がおけないからだ。そういう私があえて「言葉の魂」という言葉を使う。比喩的表現ではあるのだが、内容は簡単だ。「人の発する言葉には力があり、その場のつもりで軽く言った言葉でも、様々なプロセスを経て最後は自分に還ってくる」と。

解りやすく言えば「人を呪わば穴二つ」といったところか、ネット上にもこういった現象があるように思えてならない。しかもマイナス方向のケースが多いから始末が悪い。前回書いた「道具は使う人次第」の誤ったケースに似ているのか、奥様方がつい人の中傷に夢中になってしまうのと似たような現象もあった。お互いに顔が見えない分、言い方も残酷さを伴う。普段おとなしい人が電話ではまるで別人の様に活発になると同じではなかろうか?もし、そういった人が電話で知り合った人とある日何処かで会った時どういった会話になるのだろう?電話の向こうでは言えた事が果たして今会っているその場で言えるのだろうか?もし出来ないのであれば、言い様に無い虚無感がそこには存在するだけであろう。

そういった事でうだうだ考え込んでいた時に最近、劇団で演出を主にこなしている国分君にとある事を言われ「はっ」としてしまった。
「そんなのは、直接会ってお互いの意志、表情を見ながら話をすればいいんじゃないの?こういうのってお互い表情分かんないでしょ?そんなんで本当に会話と言えるの?」

何も言えなかった。

1997.11.20
桜井謙悟
MIDI CLUB (WEST)